清音頭

さいきん、書いたやつです。

議論をするってことにはいろんな意味があるんだ。

ぼくの2つの記事、

他人を否定しないでも自分を貫けるのが「強さ」ってもんだよ
「批判や反論はいいけど、相手の存在を否定しちゃダメ」って事を言いたかったのさ。

と、@boss_ のおじさんのこの記事、

他人を否定し自分さえ否定する強さ

はだいたいのかんじ、議論がどんだけ大事かってことを書いたものだ。

議論というのは、会社の会議だったりしたら、意見をすりあわせ、合意点を探る、ためにする場合が多かったりする。

同じ方向性をもったもの同士の議論は、わかり易いし、当人同士もラクチンである。

一方で、まったく価値観が異なる場合、それは一見、議論がかみ合っていないように見える場合もある。

異なる価値観を理解しないと社会は成立しない

例えば、ぼくは、昨日、@HironaoAshida というおじさんにTwitter上でつかまった。このおじさんは、Twitterの紹介文によると、『08-09年度文科省「質の高い大学教育推進プログラム」審査部会委員などを歴任』ということで、教育のなんたるかを取り決めるような仕事をしているおじさんだ。

ぼくは、教育の専門家ではもちろんないんだけれど、『教育』とか、『なんで勉強をしなくちゃいけないのか?』というようなことについて非常に関心をもっているので、#daigaku という大学教育に関するタグつきで、以下を含むいくつかのつぶやきしたら、上記のおじさんが「コラー、んなわけあるかー」とつっこんで来たわけだ。

「大学と職業の接続」がテーマのようだけど、技術、知識、問題解決能力、コミュニケーション能力など、企業が欲しがる人材は経営者に聞けばすぐわかる。政府が何も決めなければ、自由競争で大学も生き残れるカリキュラムつくるはず。

Posted on Twitter on 2:52 AM Feb 9th

議論の内容はめんどーだからここでは取り上げないけれど、ぼくと @HironaoAshida のおじさんは教育に対する考え方がまったくちがうわけで、たいようのおじさんに「時間の無駄だからもうやめたら?」と言われた。(まぁ、ぼくのつぶやきがれんちゃんで、TLに表示されるのがうざかった、というのもあるだろう。その節は、すんません。)

確かに、ぼくと@HironaoAshidaのおじさんは価値観がまったく違うので、意見は平行線で、どこかで合意点をみつけるなんてことには絶対にならないだろう。

でも、議論の意味というのは、合意点を見つけるためだけにあるんじゃない。

人の価値観なんて、そもそもみんな違うもので、大雑把にいっても半数の人は程度の差はあれ反対の意見を持っていると思っていい。

選挙になれば、どれだけ、みんなの考え方がバラバラかってことが良くわかる。アメリカの大統領選挙のディベートだって、合意点を探るためにあるんじゃない。違いを際立たせるため、何が違うのかを国民に示すためにある。

だとすれば、人間社会ってのは、「反対意見、反対の価値観を理解する」ということに非常に重要な意味がある、とぼくは思っているわけ。

反対の価値観を否定したり、見て見ぬふりをし始めると、それは極端な話し、差別とか、鎖国とか、に行き着く。

仮に、物理的にそうならなくても、ぼくはそれは精神的な鎖国だと思う。

また、反対の価値観を知ることで、じゃぁ、そういう人がいる世の中で、ぼくはどうゆーふうに、やりくりしていったらいいんだろう?ってことをはじめて考えることが出来る。

今回の議論で言えば、ぼくは「ほう、日本の教育をつくってる人の中にはこういうことを考えている人がいるのか、これはいかん、どうするよ?」と現状を目の当たりにすることが出来る。

議論の終わりにぼくは、@HironaoAshidaのおじさんにたいして「あなたはぼくの知らないことを随分と知っているようなのでまた勉強させて頂きます。」と言ったけど、これは皮肉でもなんでもなく、本心だ。ぼくが全くもってない価値観や知識をぶつけてくれるというのは、本当に勉強になるからだ。

否定は@boss_にとってアドレナリンで@suganeseoにとって思考停止ポイントで語の定義という現在は異なれど「そっから先へ進みたい」という未来は似てると私の大雑把な脳は解釈しました。

Posted on Twitter by @yuka_upa on 9:40 PM Feb 10th

と、@yuka_upa さんが言うように、議論をとおして反対の価値観を知ることも、ぼくにとっては前進でしかないわけだ。

(*ちなみに、@HironaoAshidaのおじさんにたいするぼくの評価はまだ定まっていない。Twitter上の議論ではぼくの言うことに対して、逐一、間逆のことを言ってきたのだけれど、議論のためにわざとそういっているんじゃないかと思えなくもなかった。このおじさんは、ヘーゲルだの、フッサールだの、ハイデガーだのをあつかった本をしたためていたりするくらいだから哲学的であり、考えるとか、理論とかってことに明るいわけで、議論のための議論をしていたとしても不思議ではないと思ったりする。考えすぎか?それに、「私立中学か、公立中学か ― 新中学生の進路に悩む親たちへ」を読むと、なかなか頷けることを書いている。すくなくとも、たんなるコッチコチのおっさんではないんじゃないか、と思われる。もうちょっと、ブログだの論文だのをよんでやろうと思っている。)

議論はコトバを鍛える

それから、これも大事だけど、議論と言うのは『言葉を鍛える』ものだとぼくは思っている。

うまく論点をすり替えるような言葉遊びの技術をいくら鍛えても、そんなのが役に立つのは政治家とか一部の学者だけ。僕たちは切れば血が出る現実の中を生きてる

Posted on Twitter by @motoharusumi on 1:52 AM Feb 11th

と、@motoharusumi のおじさんは言うけれど、ぼくはそうは思わない。

商談、プレゼン、会議、接待、「切れば血が出る現実の中を生きてる」からこそ、「言葉遊びの技術」は非常に重要な武器となる。

それに、コトバは人を傷つけることもできるし、感動させることもできる。時にはひとつの言葉が命を救うこともあるかもしれない。それは、政治家とかメディアに出る人だけでなく、日常の、家族との、友人同士との会話のなかで起こりえることだ。

ぼくは、コトバの力は大きいと思っている。

そして、それは、まっとうな議論の中で鍛えることが出来るものだとも思っている。
(読書したり、ブログ書いたりもいいけど、瞬発力とかアドリブ力とかは議論がベター。)

***

ついでだけど、

boss_のおじさんの記事の最後に、追記として、

「おっさん同士がディスカると寒いという意見を思い知ったけれど続ける。こういうブログが有ってもいいじゃないか」

と書かれている。

「おっさん同士がディスカると寒い」ということに関しては、まぁ、以前ぼくも、同じようなことを、Sphinnのディスカッションに関して言ったことがある。

ぼくや、boss_ みたいな、辛口のおっさん同士がディスカッションしたところで、Sphinnには人は集まらないだろうと。

でもそれは、あくまでも、Sphinnへの集客を目的に、マーケティングとして考えたときに、「辛口のおっさんじゃダメ」ってことでね、一般論として、辛口のおっさんがディスカッションしなかったら、誰がすんねん!ってなもんだ。

日本人は議論に対して、免疫が無いから、熱くなると、過熱した議論をみると、嫌悪感を示す傾向があるけど、先にも書いたように、議論自体が異なる価値観を認めるという意味があるから、それは人との違いを強調するという意味で、「人と違っていいんだよ」ってことをしめす意味で、どんどん過熱した議論をして、浮いていったらいんだよ。

Discussion is cool, man.

書いた日→ 2010-02-12 (Fri) 18:31

ぶんるい→ 考えてみた事とか